少年時代から今・・・。杉原隆の軌跡。

杉原 隆(すぎはら たかし) ふたご座・O型
趣味ムエタイ ポタリング ジェットスキー 読書
尊敬する人物勝海舟
長所社交的
短所舌足らず
経歴
1964年6月東京オリンピックの年に、東京・下町で産声をあげる。
1971年4月東京都荒川区立赤土小学校  入学
1977年4月東京都荒川区立第九中学校  入学
1980年4月日本大学第二学園(日大二高)入学
1983年4月日本大学・商学部(経営学科)入学
職歴
1987年4月伊藤萬(後に、住金物産)株式会社  入社
1994年6月Sumikinbussan Australia. Pte. ,Ltd. 出向
1999年1月ソニー生命保険の事業へ参画
2012年7月株式会社 ガウディ設立
少年時代高校生時代大学生時代 商社時代 ソニー生命時代ガウディ起業後

►エピソード〜少年時代〜

  • 歳の離れた姉妹に挟まれて育った幼少期。
  • 生まれつき、折り紙つきの音痴。音楽の授業が嫌でイヤで仕方なかった。
  • 「十五少年漂流記」に刺激され、「ボウケン」と称して自転車で走り廻った。
  • 夏休みに両親の出身地・長崎を訪れ、小船でキス釣り、岸でクロダイ釣りを楽しんだ。
  • 小学校3年で野球を始め、中学卒業まで全国大会(大阪球場他)10回出場。
  • 小学校4年の頃、友だちと授業を抜け出し帰宅。花札で遊んでいて父からカミナリ!
  • 大嫌いなマーマレードジャム。昼休み、開封して女の子の座布団の下に忍ばせたことが発覚。即、学級会となり平謝り(汗)。
  • 中学2年、「誰も立候補しないから杉原がやれ!」と先生の指示。意に反して生徒会会長に立候補するも、他校とのケンカ奨励のようなことを候補者演説で口にし「不信任、97票」、全体の約1割からの不信任。前代未聞で会長当選。
  • 中学3年の夏、少年野球・ボーイズリーグの全日本メンバーに選ばれ、2週間のアメリカ遠征(カルフォルニア&ハワイ)に参加。ホームステイでお世話になった方とは、今も家族ぐるみのお付き合いが続いています。
  • 同年秋、国立競技場で開催された「荒川区立中学校連合体育大会」で、3人のチームメンバーに恵まれ800Mリレー優勝。第3走者の僕が、前を走るランナーを追い抜いた時のスタンドの大きな歓声は今も耳に、身体に残っています(中学校に野球部はなく、陸上部でした)。
  • 中学3年、地理の先生との相性悪く、前のドアから先生が入室と同時に、後ろのドアから階段の踊り場へ直行。体操着の入ったバックを枕に1時間「おやすみタイム」。「授業を受けてないのに試験を受けちゃダメだろう」と変な正義感(?)で、二学期の試験は名前だけ記入し白紙答案。生涯初、最初で最後の「0点」を経験しました(笑)。
  • 小学校1年生から中学3年生まで、運動会はリレーの選手。因みに100Mのベストタイムは、なぜか運動量を減らした大学時代の11秒7。

►エピソード〜高校生時代〜

  • 3年の夏まで野球漬けの毎日、と言っても毎週月曜日と試験前の1週間、試験中の3日間は全体練習が休みだったので、盆暮れの休みと合わせると「年休100日」のクラブ活動でした。月曜日は新宿昭和館という映画館で、健さんの任侠映画を観たり、サウナのあとでマッサージ治療を受けたり、自宅近く荒川の土手でタイヤをひいたりと、毎週月曜日はそれなりに楽しい時間でした。
  • 1年の秋から2年の秋まで4季連続「ベスト4の壁」に阻まれ、春の甲子園は、「東京枠」で2回の補欠校。
  • 2年の春は、あと2つアウトをとれば関東大会という準決勝で、日大三高の福王さん(後に読売巨人軍で活躍)に、「逆転サヨナラ満塁ホームラン」を打たれ敗戦(2度目のベスト4)。レフトの守備位置から見た弾道は今も目に焼き付いています。
  • 同年夏、国学院久我山高校に敗れ、三度「ベスト4」。
  • 同年秋、相手は1年前と同じ早稲田実業高校。7-7で迎えた延長11回裏の攻撃、先頭打者がレフトフェンス直撃の3塁打。誰もがサヨナラゲーム、「よしっこれで春は甲子園だ!」そう思った直後に悲劇が始まりました。「5季連続甲子園出場」を狙う荒木投手の早実は、その後2人を敬遠し満塁策。我々の打順は2番、3番、4番と中軸好打順、外野フライでもゲームセットの場面。ここでも「両手片脚はもう甲子園」でした。結果は三振、セカンドフライ、三振。そして日没再試合。翌日は、残念なコールド負け(4度目のベスト4)で、長い冬に突入しました。
  • 3年春の大会で壁を打ち破り決勝進出も、現役中に4度目の対戦となった早稲田実業高校(投手は「あの」荒木大輔くん)に敗れ準優勝。早実との対戦は3敗1分けとなりました。
  • 東京代表で出場した関東大会(群馬県・桐生市で開催)では、またしても「ベスト4」。1回戦・前橋高校、2回戦・横浜商業にサヨナラ勝ちするも、準決勝で上尾高校に惜敗。二日続きの「サヨナラヒット」で、「恐怖の9番打者」とメディアにも取り上げて頂いたことは、良き思い出です。栄華盛衰。自分のバント失敗が原因で敗れた上尾高校戦以降、夏の大会へ向けた練習試合では全打席「バントのサイン」。走者がいれば送りバント、いなければセーフティーバント。上尾戦のバント失敗がトラウマになり、忘れもしない「37打席連続バント失敗」。ほろ苦い経験です。
  • 3年夏、最後の大会は「西東京第1シード」で迎えました。「第1シードは優勝できない」というジンクスがありましたが、5試合中3試合コールド勝ち、3校は後にプロ野球で活躍した投手でした(明大中野:武田君は日本ハム、堀越:猪俣君は阪神、日大三高:宮下君は中日)
  • 甲子園では1回戦、福岡代表の八幡大付属高校との対戦。2対4で劣勢の6回攻撃途中で、降雨ノーゲーム。数日後の再試合では、9対6で初戦を突破し、2回戦は優勝候補の徳島・池田高校と対戦しました。相手投手は147キロの速球本格派・畠山君(後に、南海ホークス、横浜ベイスターズで活躍)に、3対2と一勝ち越すも結果は3対4の惜敗。控え投手で2年生の水野君(後に巨人軍)は、レフトを守っていました。
  • 10年に及ぶ野球人生は、支えて頂いた多くの皆さんのお陰で、「甲子園」という最高の舞台で幕を下ろすことができました。感謝の二文字です。

►エピソード〜大学生時代〜

  • 「37回」もバントのサインを続けて出して頂いた!監督さんに声をかけて頂き、助監督として改めて母校のユニフォームを着させて頂きました。
  • 多くのアルバイトも経験しました。配膳会で喫茶店の厨房やホテル宴会場、工事現場の棒振りに家庭教師等。4年間続いたのは、大学1年の時に開園した東京ディズニーランド。ポップコーンやアイスクリームのベンダーの他、在庫管理や発注業務などもやらせて頂きました。バイト仲間は同年代が多く、大学のサークル活動のようなノリでした。この時の経験が後に役立つなど、この時は微塵も思いませんでした。
  • 大学1年の春、自身の野球で両親を独り占めにした償いとして、8歳違いの妹を夏休みにアメリカ・サンディエゴの知人宅へ遊びに行かせたい、とバイトに精を出し、学食では「いつもの」で通じるようになった一食¥150のカレーライスの日々も懐かしい思い出です。
  • 学祭で講演してくださった「ゼロサム社会」の翻訳者に頂いた直筆サイン。その著者、レスター・サローMIT教授が来日すると知り、夜行バスで大阪へ向かい、講演後には本を片手にステージまで詰め寄り、カタコトの英語でサインを頂きました。若かったです。
  • 20歳の夏に2万円を握り締め、20日間の「北海道野宿自転車ひとり旅」に出ました。「独り」で何が出来るのかを確かめたくて・・・結局、旅先で多くの方に助けられ、親切にして頂きました。動機は若気の至りでしたが、忘れ得ぬ時間となりました
  • 大学3年の冬、2ヶ月間自宅に篭もりすきま風を眠気覚まし変わりにして、「21の3乗(21世紀に向け、21歳の自分が、21の項目を記す)」、 そんな気持ちで原稿用紙500枚と格闘。就職活動前に「内省」の時間を過ごしました。その甲斐あり、しっかりとゴールを定め、8月20日解禁日から逆算した就職活動を、周りの友人の内定、内々定に惑わされることなく送ることができました。結果、第一希望の商社、伊藤萬に内定。解禁日午前中に初回面談、当日夕方には内定を頂いていました。ちょっとしたストーリーがあるのですが、ここでは割愛させて頂きます。
  • 父親が手作りで作った五右衛門風呂もどき。近所の看板屋さんから出る廃材での風呂焚きは僕の役目。薪をくめながら何冊の本を読んだことか。
  • 卒業旅行は、中学三年の夏に廻ったカルフォルニアをひと月かけて再び。7年弱の歳月も、ホームステイをさせて頂いたご家庭との時間を一瞬に縮めてくれました。丸坊主のいがくり頭の少年が、髭面の成人になって(笑)。足を延ばしてポートランド、シアトルと独り旅は社会人前の背伸びをした時間。サンフランシスコからモントレー、カーメルを経てロサンジェルスまでのRoute 1のドライブは最高でした。

►エピソード〜商社時代〜

  • 東京採用で新入社員研修後、即大阪配属(インテリア本部)となりました。「まいど!」の一言が上手く言えず、取引先の河内のおっちゃん達に何度電話を切られたことか。徐々に慣れてきましたが、喫茶店で「そこのフレッシュとってぇや」と言われて何のことか???ということも(笑)
  • 入社後数ヶ月が過ぎて思い出した後悔の一言。内定をもらった専務面接で自ら発した言葉「石の上にも三年。最初の三年間は一番厳しい部署で鍛えて頂きたいと思います」。入社と同時期に兵庫県から移った奈良県生駒市にあるピカピカの独身寮を朝一番に出て、夜最後に帰寮。口は禍のもとです。言葉の怖さを思い知らされました(笑)
  • それでも、高校時代の「休みはとったもん勝ち」の経験から、1年目から今で言う「プレミアム・フライデー」を当時から実践していて、金曜日は5時半で定時退社と決め、心斎橋にあるショットバーへ一直線。ビール瓶片手にダーツをやりながら、外人客と実践英会話の「お勉強」をしていました(笑)。
  • 3年目の夏休みは同期とふたり、N.Y.へ珍道中。現地で目にした映画興業記録を塗り替えていった「BATMAN」を、帰国後ビジネスにするとは思いもせず、愉快な一週間を過ごしました。
  • 帰国後、溜まっていた新聞で「N.Y.でBATMAN大流行」の文字を目にし、すぐさま#104へダイヤル。ワーナー・ブラザーズのオフィスの電話番号を確認し翌週には東京へ出張。その後、ワーナー・ブラザーズとライセンス契約を結び、12月の映画公開までに新規ビジネスを担当させてもらいました。若手社員に権限委譲し、多少の失敗は織り込み済みで社員を育てるという会社の気風でした。「BATMAN部長!」と煽てられ、どこまでも木を登っていきました(笑)。
  • 「石の上の三年」も過ぎ、バブル絶頂の4年目、海外事業部への社内公募があり手を挙げ、東京に転勤となりました。社内各部署からの精鋭の中に放牧され、居場所を間違えたかな!と感じる日々が続きました。アメリカのゴルフ場開発と、カナダのホテル運営プロジェクト担当となり、英語も、ビジネスマナーも鍛えられた時期でした。この時の経験が、後のオーストラリア赴任時に役立ったことは言うまでもありません。経済事件となった「イトマン事件」を渦中で経験できたことは、ある意味貴重な体験だと思います。
  • バブルが弾け事業部が解体となり、紆余曲折を経て落ち着いた食糧本部。半年の現場研修後にオーストラリア・メルボルンの現地法人へ出向となり、オージービーフの対日輸出業務を中心に、優秀なナショナルスタッフと共に新規市場開拓を模索して過ごした3年半でした。日本ではお会いできないような方々もお迎えし、ブリスベーン、ゴールドコースト、シドニー、タスマニアへ幾度となく足を運び、ニュージーランドへも。民間飛行機だけでなく、双発機のセスナをチャーターしタクシー替わりに利用したりもしていました。一方、早朝ホテルでお客さまをピックアプし、車で3時間かけて所有する牧場にご案内、夕食後には日本にないカジノへお連れしたりと、忙しくも 充実した時間を過ごさせてもらいました。
  • 夏時間のある豪州ですから陽は長く、豪州オープンで有名なメルボルン・テニスクラブの会員になり、仕事を早々にきりあげ帰宅途中にテニスで汗を流してから帰るという、今では考えられないようなことも普通に行っていました。
  • 日曜日に街の彼方此方で開催されるクラフトマーケットは「お気に入り」で、よく家族で散策したものです。週末の新聞はもの凄い量で、Milk Bar(日本でいう売店)で新聞を購入し、「カフェの街メルボルン」で気取ったりもしました(笑)。
  • 滞在中に長男が誕生、彼の戸籍は「出生地オーストラリア・ビクトリア州」、我が子ながら少しジェラシーです。
  • 駐在中3年をかけて成就したビッグプロジェクトとは別に、アジアの市場開拓に奔走したことは、かけがえの無い財産となりました。優秀な日本人、そしてナショナルスタッフのお陰でフィリピン、香港向けのビジネスが開始され、さてシンガポールへという時に日本への帰国内示。
  • 仕事で助けて頂いた船、通関、保険、旅行会社のみなさん、工場の多数のスタッフのみなさん、食肉のことは何も分からない自分を来豪時に育てて頂いたクライアントのみなさん、そして陰に陽に支えて頂いた現法のみなさん、家族へは感謝の念に耐えません。有難うございました。

►エピソード〜ソニー生命時代〜

  • 「1本の電話」から12年間お世話になった商社を卒業し、ソニー生命の事業に参画しました。訳も分からずに走った1年間の後、「MDRT」会員資格というご褒美が待っていました。生命保険業界で優績者のみが、その資格を得られる世界的な組織で、今も尚、心の拠り所になっています。
  • 幾度かの登録を重ねた後、MDRT日本会の国際委員の拝命を受け、人格的に素晴らしい業界の皆さんと共に分科会の仕事をさせて頂き、シカゴで開催された「リーダーシップシンポジウム」にも、世界の100人の一人として招聘頂いたことは身に余る光栄です。
  • 「きょうから生命保険が変わる。ライフプランナーが変える。」という理念のもとにスタートしたソニー生命で生きていく上で「専門性」が必要と考え、現在の活動に繋がる「医業経営」の勉強に本格的に取り組みました。
  • 社会の公器に近い生命保険会社として「ソニー生命ボランティア有志の会」の活動があります。神戸や新潟、東北の震災被災者のご支援、スペシャルオリンピックスやリレーフォーライフの活動、児童養護施設の子供たちと触れあい等、多岐に亘る活動を会の一員として参加させて頂いています。
  • 社会貢献のひとつとして、地元横浜で小学校のPTA会長を2期務めさせて頂きました。2期目は小学校の会長に加え、区の副会長、市の理事として の活動と多忙を極めましたが、小学校の役員の皆さま、OB・OGの先輩方の支えや御支援を賜り、何とか任期を終えることができました。「Saturday Place」と名付けた土曜日午前中に行った1年生から6年生まで自由参加の遊び場は好評でした。派生して始まった「おやじの会」、そこに賛同頂いた「自称・おやじ」のお母さまたち。子どもたちと、大人たちと楽しい2年間でした。
  • 多くの方とのご縁を頂いたおかげで、社内最上位資格の「エグゼクティブ ライフプランナー」に就任し、金融最先端国のイギリス、福祉最先端国のデンマークで研鑽を積むことができました。日本を離れ、時間を共にした同期の仲間は、かけがえの無い宝ものです。この時の経験は今も尚クライアントの皆さんへお伝えしています。
  • 厳しい生命保険業界で順風満帆であろう筈もなく、どん底の時期も経験しました。その時、「FA」という制度に助けられました。条件が合えば希望の球団に移籍できるプロ野球選手のように、条件が合えば支社間を移動できる制度があり、新宿から汐留に環境を変え、復活に向けて汗を流したこともあります。
  • 地球をフィールドに活動する商社から、ドメスティックな生命保険業界へ身を転じましたが、身体の奥底にはやはり「元・商社マン」の血が残っています。毎年5月に東京で開催され、アジア各国の首脳が参集、現状確認と未来への提言を発する国際シンポジウム「アジアの未来」での聴講は、視野を拡げてくれる良い機会となっています。
  • 同様に、「MDRT資格」を得た年には、6月北米大陸の何処かで開催される   「Annual Meeting」に参加し、世界中から集まる約1万人の同士と意見を交換し、多くの刺激を得て帰国します。帰国後にはクライアントの皆さまとその感動をシェアさせえてもらうことも楽しみのひとつです。

►エピソード〜ガウディ起業後〜

  • 「ご契約者の皆さまに寄り添って、一生お守りします」疑いもなく、そう口にしていた自分が、嘘をついていると気づいたことが発端でした。「定年」を僕自身が決められる「Story-Line(筋書き)のないGaudi Story」が始まりました。
  • 歯科医師会に留まらず、彼方此方の先生方が主催されるスタディグループに呼んで頂けることも多くなり、医療界の現状と今後の医療行政の方向性、その中で生きていくための医業経営のヒントをお伝えしています。
  • 引き続き委嘱されている鶴見大学・歯学部非常勤講師も年数回の講義から、下期・14コマ(1単位)で学生の皆さんと対峙することになりました、「医療における社会行動学」。作成したシラバスの内容に準じて「考動学」としたかったのですが、理事会で却下されたようでした。いづれにしても、希望に満ち溢れた学生の皆さんとのふれあいは刺激多い時間でした。現在は大学へ勝手申し上げ、以前のペースに戻して頂いています。
  • 人口減少、財政逼迫が続く中、2018年4月には6年に1度の大改定「診療報酬・介護報酬の同時改定」が控えます。GDPの2倍超という莫大な累積債務を抱える国で、このタイミングを逃すと次回の大改定は2024年になってしまいます。
    ソニー生命に協力して頂き、全国の医師会・歯科医師会・病院協会で各委員会主催のセミナーで情報提供、及び個別面談を通じて会員の先生方の多種多様な課題解決に向け、ご支援を続けています。
  • 1000名を超える生命保険のご契約者も時と共に、そのライフステージも、抱えるライフリスクも変わってきています。不定期ながらご連絡をとらせて頂き、担保している保障の過不足を随時修正や、保険以外で担保可能な潜在的なリスクヘッジをご指摘、ご提案させて頂いています。